by 神宮寺
深夜、甲高い声が、治療室から響いた。
その声は意味をなしていなかったが、聞いている者には明瞭な意味を持っていた。
若い女性があげる悲鳴、それ以外の何物でもなかった。
「あすか……あすか……」
シンジは、待合室のソファーに座りながら、うわ言の様にその名を唱えつづけて
いた。両手を祈るように合わせ、右足を盛んに揺らしている。
「静かにしなさい。あなたがここで何をいってもしかたがないわ」
傍らに座ったレイは、毅然とした態度でシンジをたしなめるが、その面持ちにも
不安の色が浮かんでいる。無理もない。壁一枚隔てた向うでは、彼らにとって最
も大切な女性が、病魔と戦っているのだ。それなのに、彼らにできる事は、ここ
で待つ事だけなのだ。
「っで、でも、気にならないのか?」
救いを求めるように、レイに向き直る。
「涙を流していたんだよ!あの気丈な子が、痛い、痛いって泣きわめいて……」
シンジの言葉に、レイの心に嫉妬にも似た感情が渦巻く。自分がもし同じ病でも、
シンジは同じように心配してくれるだろうか?数瞬の躊躇いの後、その考えを意
識の片隅に押しやると、今のシンジに取って冷酷とすら映りかねない、いつもの
毅然とした表情を見せ、静かに言葉を返した。
「あなたは人の心配する為に……」
だが、そのレイの言葉は、凄まじい騒音にかき消された。
慌てて、診療所の外へ飛び出した二人を待ち構えていたのは、闇をライトで盛大
に切り裂き、駐車場に着陸しようとするヘリコプターだった。
軍用らしく押さえた色調で塗られたの機体そのものは、逆光のせいもあり、二人
の目では判別が難しかったが、それでも、機首に白く書かれた“Nerv”の文字が
奇妙に浮かんでいた。
「まさか……」
「多分、そのまさかね」
ヘリが降下するに連れ、高速回転するローターとジェット噴流から巻き起こる突
風が二人を襲う。慌てて手かざす二人に、天雷の如き声が響き渡った。
「シンジ!」
非常識にも、ローターとジェットエンジンが巻き起こす騒音よりも大きな声を上
げ、地面から1メートルは離れている機体から、一人の男が飛び降りた。
深夜であるにも関わらずサングラスをかけた、髭面の男−碇ゲンドウであった。
ローターが高速で回っているのも無視し、飛び降り、つかつかとシンジに近寄る。
その背後でヘリコプターは一際甲高い騒音をあげると、ゆっくりと上昇していく。
そして、逆光と突風でまともに顔を向けられない己が息子に向かい、冷酷そのま
まの声で宣言した。
「 貴 様 に は 失 望 し た 」
「……で、でも……父さん……」
息子が上げる抗議の声を当然の如く無視し、傍らのレイに詰問口調で尋ねる。
「レイ、あすかの容態は?」
「今、先生が診てくれてます」
「そうか」
ゲンドウは歩みを止めず、そのまま診療所へ踏み込む。シンジとレイも仕方なく
後に続く。診療所では白衣の男が三人を待ち構えていた。
マスクで隠されていて表情は読めなかったが、困惑の色を浮かべているのだろう。
「先生、お久しぶりです。あすかの容態は?」
医師は、大きな衝撃を受けた人間にありがちな平坦な声で、その問いに応えた。
「大丈夫です。先ほど治療も終わり.....」
その言葉に、ゲンドウの背後で取り残されていたシンジが反応した。
「あすかーーー!」
「待て、シンジ、わしが先だ!」
二人は靴を脱ぐのももどかしげに先を争って診療室へ突き進んでいく。
後には呆然とする医師とレイがただずんでいた。
数瞬後、先に事態を把握したレイが、頬を染めつつ、慌てて医師に向かい頭を
下げた。
「先生には本当ご迷惑をおかけします。こんな夜分に大騒ぎして……」
深夜にヘリコプターで降りて来られたら、近所迷惑もいいところであろう。
「いいんですよ。まぁ若いからしょうがないか」
医師は、マスクの下に苦笑に近いものを浮かべながら、応じる。
「ところで先生、あすかの容態は?」
レイの言葉に医師は、瞬間驚いた表情を浮かべるが、すぐにその理由を理解する。
シンジ達ほどストレートに行動しないだけで、不安なのはレイも同じなのだ。
「さっきも碇さんに言ったように大丈夫ですよ」
医師は、わざとゆっくりと、そしてにこやかな笑みを浮かべながら応じる。
「しかし、大した子ですよ。散々泣きわめいていたのに、治療が始まったら、
寝ちゃいましたから...それにしても綾波さん、立派になったね〜。私も
年を取るわけだ」
安堵と苦笑が入り混じった表情で、レイが応じようとした瞬間、小さな影が医
師の横をすり抜け、レイに向かって駆け寄ってきた。
そして、レイの足にしがみつくと、上目使いで彼女に訴えた。
「 ま ま 〜 」
「あらあら、あすかったら、甘えんぼさんね〜」
そう言いながら幼稚園に上がったばかりの我が子を抱き上げる。
表情は勿論、慈愛に満ちた母の顔である。
その光景を、何時の間にか診療室から帰ってきたゲンドウとシンジが、もの欲
しそうな表情で見つめていた。
数秒間、両者を見比べていた医師は、笑いを噛み殺すと、諭すような口調で、
レイとあすかの母子に向かって話し掛けた。
「まぁ、小さいお子さんの虫歯は、急に痛くなりますから.....」
だが、歯科医師の言葉は、もう一組の親子にゴングを鳴らす結果となった。
「シンジ!お前が甘いものばかりやるからだ」
「何言ってるんだい!父さんこそ、ケーキばっかり買ってくるじゃないか!」
「何を言う。お前の和菓子ばかりに比べれば、ましだ」
「和菓子ばかり。よく言えるねぇ。この間、僕の留守にあすかを連れてお汁粉
屋にいったそうじゃないか!しかも、マヤさんに評判のお店まで聞いて」
「き、貴様、誰からその事を……」
「NERVじゃ知らない者はいないよ。碇司令はおじいちゃんになってすごく
甘くなったって。この間なんか、その事の為だけに、ドイツから惣流がわざ
わざ電話かけてきたくらいだよ」
碇親子の口論は、どんどん低レベルへ落ちていった(^^;。
「お義父さん、あなた!いいかげんにしなさい!
まったく、二人してあすかを甘やかすから……」
「いや、だけどなぁ、レイ」
「だけどじゃ、ありません。お義父さん、公用ヘリまで持ち出して、なんです
か!冬月副司令に小言を言われるのは、私なんですからね!」
「いや、でも、父さんもあすかを心配してくれたわけだし.....」
「あなた!大体、何でお義父さんが、夜中に私達がここへ来た事を知っている
んです!おおかたあなたが、わざわざ.....あら、何かしらこの匂い?」
何時の間にか待合室をすさまじい悪臭が支配していた
「おじいちゃん……お口くちゃ〜い……」
幼児らしい大袈裟で愛らしい仕草で鼻を摘みながら、あすかが祖父に訴えた。
……ゲンドウは、重度の歯槽膿漏患者だった。
「…………せ、先生ーーーー!」
顔面を蒼白にし、歯科医に飛びかからんばかりに、叫ぶ。
「定期検診をサボっているからですよ」
歯科医師の言葉は、にべもなかった。
「先生、お願いします!
わしの……わしの口臭を……
ようやく、息子と和解できたのに……
ま、また、も、もし、孫に嫌われたら………
わ、わしは、もう、い、生きて………………」
歯科医師は涙混じりにしがみつく彼の患者と、鼻腔を襲う悪臭に辟易しながら
固く決意した。
『今度こそ診療室の洗浄代、治療費として請求しよう』
その光景を見て、碇レイは声を立てて笑った。
そして、その口元には白い歯が綺麗に並んで輝いていた。
……西暦2030年、世界は平和だった。
【SS】 ASUKA − 真夜中の叫び − / 無口な理由は…… < Part3 > < 完 >