「遅いなぁ、冬月先生...」
「もう5時間だよ」
「あ〜っ、もう、心配やなぁ」
「おいおい、もう発表は済んじまったんだぜ。 今更何を言ったって変わらないぞ」
「そりゃそうですけど.....」
「やっぱり、不安だよなぁ」
「心配しないでも、みんなちゃんと水準いってるから大丈夫だよ。 ...まぁ、俺も
去年はそうだったからな。 気持ちは分かるけど。 ...碇は落ち着いてるなぁ」
「え? えぇ...。 やるだけのことはやったんだし、もう後はなるようにしかならない
でしょ?」
「ユイちゃんはいいよ...。 あれで落ちるなんてまず考えられないし。 でも、あれを
基準にやられるとなぁ.....」
「あ〜〜〜っ! そないなこと言わんどいてんか? ますます不安になるやないか」
「おいおい、それ言い出したら、オレら(修士)の立場はどうなる?」
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん..........」
一方。 ここにも頭を抱える者たち。
「弱りましたなぁ...」
「そうですなぁ.....。 これを学士論文として通してしまうと...」
「しかし...ほとんどの学生はもう『次』が決まっていることだし...」
「ふ〜〜〜む.....」
「せめて.....もうひとつ論文があれば...」
「そうですなぁ...。 もう少し.....」
「もうひとつか...。 あぁ、そうだ! 冬月君、あのレポート...ほら、去年君に
見せたやつ。 あれ、まだ持っているかね?」
「えぇ、部屋においてありますが.....あれを使われるおつもりですか?」
「どうだね? 私の目から見て、あれも充分水準に達していると思うが」
「本当かね? もし本当にあるなら、それでもう一度...」
「.....やってもらいますか?」
「あぁ。 とにかくそれで発表してもらってから考えよう。 急な話になるが、大丈夫
だと思うかね?」
「問題ないと思います。 今回の分も、予行演習の時からそつなくこなしましたので」
「では、大至急準備してもらってくれ」
「わかりました」
「あ、冬月先生!」
「どないでした?」
「ん? あ、あぁ、まだ審議中なんだが...。 ユイ君、やはりここにいたか」
「何か...?」
「あぁ、至急来てくれ。 ちょっと頼みたいことがある。 それと、さっきの卒論発表
のOHPも持って来てくれないか? 君の分だけでいい」
「はい...。 わかりました」
「とりあえず学科事務局に行こう。 詳細は道々話す」
「それで...一体どういう事なんですか?」
「あぁ、経緯についてはまた後から話すが、そのレポートの内容でもう一度発表を
やって欲しいんだ。 それで、それ一式のコピーと、こことこことここ、それと
ここから先、OHPに焼いてくれないか? コピーの部数とか発表の要領はさっき
と同じでいい。 できるね?」
「はい.....。 やれと言われるなら。 でも、後でちゃんと説明して下さいね」
「あぁ、分かっている。 ...あぁ、コピー借りるよ。 あと、OHPのフィルムも
出してくれないか?」
「冬月先生、どうなさったんです?」
「いやね、異例なことなんだが...彼女に緊急でもう一件発表をやってもらうことに
なってね。 その資料なんだよ。 時間が無いから青焼きじゃ駄目なんでね」
「はい、カウンターと、OHPシートです。 OHPシート使った枚数は書いといて
下さいね」
「じゃぁ、ユイ君、よろしく頼むよ。 でき次第すぐ、201に来てくれ」
「201ですね。 分かりました」
「お、えらい遅かったなぁ。 どうしたんや?」
「以前書いたレポートをね、発表しろって。 ...確かに今回の卒論とも関係はあるん
だけど...」
「ふむ、私もここの技官になって長いが、そんなのは初めてだな」
「で、どんなレポートだい? ちょっと見せてくれるかな?」
「えぇ、これですけど...」
「おい、山中君、これ...」
「これだけ見ればちょっと気になる点はありますが...今回の卒論とセットで見れば...
充分、学部の卒論としては通じますね」
「...だな。 私もそう思うよ。 しかし...お偉方は何を考えているんだ?」
「さぁ...」
「発表でも何だか卒論発表の時より突っ込んだ質問が多くて...。 何とか卒論の資料
と合わせて説明はしたけど...。 受け答えの内容も盛り込んで直したのを提出しな
さいって。 どうなってるのかしら?」
「う〜〜〜〜〜ん.....」
「お、みんな揃ってるな」
「冬月先生! ど、どないなりました?」
「安心しろ。 みんな合格だよ。 それより、これからみんなで飲みに行かないか?」
「へぇ。 冬月先生から飲みに行こうなんて、珍しいですね」
「ははは。 少々喉も渇いてしまったしね。 じゃ、異存なければ行こうか」
「ビールは行き渡ったな? じゃ、乾杯の音頭は、冬月先生、お願いします」
「うむ。 では...。 学部生諸君の卒論合格と井上君、中村君の修士合格、それと
山中君とユイ君の博士号取得を祝して...」
「ちょ、ちょっとまったぁぁぁ! い、今、何と?」
「それはすぐ説明するから。 とりあえず先に乾杯させてくれないか? あんなに長い
卒論審査会は初めてだったからね。 喉が渇いているんだ」
「は、はぁ.....。 じゃ、改めてお願いします」
「では、乾杯!」
「かんば〜い!」
「で、どういう事なんです?」
「あぁ。 実はね、ユイ君の卒論とその発表なんだが、内容が少々革新的すぎてね。
あのレベルを基準にしてしまうと今年はユイ君にしか卒研の単位を出せなくなって
しまうと大騒ぎになってね」
「げ..........」
「それで、何か適当な代わりがあればそれを卒論にして、今回の卒論は博士論文として
投稿された扱いにできないか、という話になったんだよ」
「それで、あのレポートを、ということですか」
「そうだ。 幸い、今回の卒論もあれの続きのような内容だったしな。 斎藤君、君は
あれを読んでどう思ったかね?」
「少々、量的には少ない気もしますが、論理の展開はきちんと筋が通ってポイントを
突いていますし、データ的にも今回のを合わせて考えれば充分、卒論として成り立つ
と思いますが...山中君はどうだい?」
「僕も同じ意見ですね。 発表での説明次第では、『優』がついても不思議じゃない」
「まぁ、それは成績表が出てのお楽しみ、としておこうか。 ...実際、我々としても
助かったよ。 急な話だったのに、ユイ君も申し分ない発表をしてくれたしな」
「そんな...」
「ま、いずれにしてもみんな無事卒業決定っちゅうこってすやろ?」
「あぁ。 私はそう言ったつもりだが?」
「俺と太田さんはあと1年残ってるけどな」
「当たり前だ。 M1とD2なんだからな」
「よっしゃぁぁぁぁ!!! 今日は飲むでぇぇぇぇ!!!」
「お前、今日『も』の間違いだろ」
「めでたい席でそないなこと言いっこなしでっせ! ほなら、改めて.....
くぁんぷぁ〜〜〜い!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・
・
「さて...2次会、行きまっか」
「私はちょっと...。 飲みすぎちゃったみたい」
「う〜ん、ま、いつもよりよぅけ呑んどったわな。 ほな気ぃつけてお帰り」
「私も今日は失礼するよ。 少し張り切りすぎたようだ。 歳かな」
「また〜、先生」
「ははは。 済まんな。 じゃぁ、ユイ君、どうせ方向は一緒だから、途中まで
送ろうか」
「すみません」
「でも.....まだ信じられません...。 私が、博士なんて...」
「あの論文にはそれだけの価値があるよ。 ま、当然の結果、といったところかな」
「冬月先生ったら...」
「ははは。 私がお世辞を言えるような人間じゃないことは、君も分かっていると思う
がな。 ...しかし...娘を送り出す父親、というのはこんな気分なのかな。 幸せに
なって欲しくもあり、手放すのが惜しくもあり...。 何だか不思議な気分だよ」
「..........」
「なぁ、ユイ君」
「はい」
「大学に...残る気はないかね? もちろん、卒業式と一緒に行われる学位授与式で、
君は博士号を手にすることになるし...大学院入試は終わってしまったから、別の
学科で大学院に進む、という意味も無いだろう。 だが、さっきの会議でも話が出た
んだが、もし君が望むなら、助手として残ってもらってはどうか、というのが大方の
意向だよ。 もちろん欠員などないから新規にポストを作ることになるが、本部に
掛け合うだけの価値はある。 実のところ...もし話が通らないようなら、ポストが
空くまでは助教授以上で費用を出し合ってでも、研究生として残ってもらうよう説得
しろと言われているし...私もできることならそうしたい」
「.....それは買いかぶり過ぎですわ...。 それに...やっぱり、私...」
「残る気はない、か...」
「こんな風に...思っても見ないことにはなりましたけど...もっと他の方向でも、自分
の可能性を試してみたいんです。 ...なんていうと格好いいですけど、ホントのと
ころ...自分が本当にやりたいことが...まだ見えてこないんです。 キョウコなんて
目標をしっかり持ってて...ちゃんとその方向に向けてがんばっているのに...」
「キョウコ? あぁ、交換留学で来ていた惣流君かね」
「えぇ。 今も、文通してるんです。 私はドイツ語で書いて、キョウコは日本語で。
おかしいところはお互い次の手紙で指摘しあって。 おかげで、ドイツ語は結構自信
あるんですよ。 ...読み書き専門ですけど」
彼女にしては珍しく、ペロリと舌を出して見せる。
「そうか...。 そういえば、翻訳のアルバイトをしているんだったな」
「えぇ。 英語とドイツ語と。 結構いいお金になるんですよ。 とりあえずあと1年
くらい続けて、その間に今後のことをいろいろ考えてみるつもりです」
「家庭に入ること、も含めてかね?」
「えぇ。 ...あの人しだいですけど」
「あの男か...。 得体の知れんところのある男だからな。 正直、勧めかねるよ。
それに...ウチじゃなくてもいい。 どこかの大学か、あるいは企業...。 研究者
としての仕事をしてもらうのが、少なくとも学界のためではあるがね」
「そうでしょうか...。 それに、あの人...」
「可愛い人、かね? まだ今ひとつ理解できんな。 それに10歳も違うのだろう?」
「あの人...見掛けは少し恐そうで得体が知れないように見えるかもしれませんけど、
ホントは...とても寂しがりやで、一人で居るのが辛いくせに、一人でいいんだ、
ってつっぱって...。 不器用なんですよ。 恐く見えるなら恐がられないように...
本人も考えて行動してるつもりなのに、失敗ばっかりで。 私が付いていてあげない
と、って思うんです。 理屈じゃなくて...あの人といると、私が必要とされてる、
って実感できるんです」
「そうか...。 ふふ、君らしい答えだな」
「すみません...。 せっかく、お誘い頂いてるのに...」
「いいさ。 教授連中にはうまいこと言っておくよ。 おっと、君はここから左だっ
たな。 何なら部屋の前までは送るが...」
「いえ、大丈夫です。 もうすぐそこですし」
「そうだな。 じゃぁ、気をつけて」
「先生こそ、まだ先なんですから」
「あぁ。 ありがとう」
振り向かず、片手を挙げて去る冬月。 ユイは深々と頭を下げて。 踵を返した。