CHAOS JYHAD 第十話 全てをくれた あの人と

 暖かい水が、私を包む。
 揺れる水面と、微かな泡と、遠く聞こえる優しい音が、私の世界。
 でも私は、こんな言葉をどこで知ったのだろう? 水、泡、音、世界。
 言葉という言葉をどこで知ったのだろう?
 私の世界に響く音。それは、リズミカルに響く心地よいリズム。私のあの人が近付く、軽やかな足音。
 あの人が近付くと、私の胸は高鳴る。
 揺らめく水の壁ごしに、あの人の綺麗な瞳が見える。緑の髪が見える。見たこともない木々の葉を思わせる、鮮やかな緑の髪が……
 あの人はいつものように壁に手をつき、愛らしく微笑みながら、私を見つめた。
 私も思わず微笑み返す。
「こぽ」
 笑みは泡に変わって、私の髪を撫でていく。
 言葉は届かないけれど、他には誰もいないけれど、私の世界にはあの人がいる。
 私に全てをくれた、あの人が。

 けれどその日、私の世界は壊れていった。
 私の周りから水が抜け落ち、私の肺は初めていっぱいに空気を吸い込んだ。
 そしてあの人は、私が膝を抱えていた水槽の縁に身を乗り出すと、これ以上ないほどの笑みを浮かべて、私の名を呼んだ。

「ラーガシュ! お前の名はラーガシュなのだ! 今日からこの我が輩、ザナタックの奴隷なのだぞ!!」

 それが、私の誕生の瞬だった。

 ***

 その生き物は、美しかった。
 可憐な乙女のごとき容貌。そして生物として完成された、両性具有の見事な肉体。
「ふむう……我ながら、なかなかの傑作なのだな!」
 ザラ勢の軍師役を務めるケイオスドワーフの科学者ザナタックは、自らが創り上げた生命−−ラーガシュの前で、ぴょこぴょこと跳びはねながら喜んでいた。
「私…ラーガシュ……ザナタック様……の奴隷……」
 まだ体から培養液を滴らせているラーガシュは、ザナタックから受けた言葉を反芻していた。
「お、予定通り、知能もかなり高くなったようなのだ。…と、まずは、体を拭いた方がいいのだな。ギルメイレン、始動!」
「はい…おれ、始動した」
 ザナタックの声に応え、その背後から美しい巨体が起きあがる。ラーガシュの一つ前に創られた人造生命体ギルメイレンは、渡された柔らかな布で丁寧にラーガシュを拭いてやり始めた。
 ラーガシュはアメジスト色の瞳でそれを見つめ、口元をほころばせた。
「ギルメイレン姉様、ありがとうございます」
「…ん? うん」
「ほむぅ! おお、もうお礼が言えるのか! 偉いのだ、賢いのだラーガシュ!」
「はい…」
 ザナタックに抱きつかれたラーガシュは、はにかみながらギルメイレンと微笑み合った。

 ***

「さて…基本的な性能は十分として、問題は生殖能力なのだな…」
 ベッドと言うよりは診察台といった風情の、殺風景な寝台。ザナタックの研究室の一画にあるその上に、ラーガシュは寝かされていた。
 これはベッド。あれはランタン。それは机。これがザナタック様の帽子。
 見る物全てが珍しく、しかしその名前や情報は知っているという、不思議な状態である。生まれつき高い知能と知識を与えられたラーガシュは、自分の頭の中に浮かぶ名を一つ一つ噛みしめるように、首を回して辺りを見ていた。
「ふむ…少し風情という物に欠ける気がするのだな。ラーガシュの性質が機能以外の不合理な条件を重視するかどうか分からないが、まあ一応、処置を加えておくのだ。ええと、呪光転換式(中略)立体映像投影装置は……」
 ベッドの端に腰掛けたザナタックは、さすがにラーガシュにも理解し難い独り言をつぶやきながら、ラーガシュの知らない器具を取り出した。
 水晶玉とランタンを組み合わせたようなその器具を、ザナタックがくいと捻った。途端に、研究室は薄い闇に包まれ、ベッドは赤いベルベットの海に変わっていく。
「ふわ……」
 ラーガシュは感嘆の声を洩らして、自分の横たわる赤いベルベットを撫でた。それは手触りまで変わり、柔らかくラーガシュの体重を受け入れている。
 なぜだか薄闇に心が安らいで、ラーガシュはそっとザナタックの小さな手を握った。
「ふむ。ではまず、雄生生殖器からなのだ」
 ザナタックはぴょこんとラーガシュの太ももにまたがると、懐から取り出した小さなリボンで、器用にラーガシュの両手を結んでしまった。そしておもむろに、ラーガシュの股間に生えたひょろ長い器官を手に取った。
「??」
 それはペニス。生殖に使う雄生生殖器。
 でも、生殖って何だろう? ラーガシュは足りない情報に首をかしげ、ザナタックの手を不思議そうに見つめた。
「ザナタック様、生殖器って、何をするものなのですか?」
「ふむ。まあここは、実地体験が一番なのだな。良いか、これはこうして……」
 ザナタックの指が巧みに動くと、ラーガシュの下半身に熱が灯った。
 生殖器に熱く血液が流れ込み、ザナタックは膨れ上がるそれを、小さな口に頬ばった。
 濡れた小さな舌の感触が、柔らかな唇の締め付けが、生まれたての神経を快感となって走っていく。
「ザ…ザナタ……ク……様……?」
 ラーガシュはガクガクと震える自分の肉体に怯えながら、ザナタックの顔を見つめた。
 見返すザナタックの目が、心配するなと教えている。
 −−はい。
 ラーガシュの心は、それだけで平静を取り戻した。体はますます震えているのに。膣も肛門も激しく収縮して、熱い血が爆発しそうなほど駆け巡っているのに。
「ふ…あ…ぁぁ……」
 ラーガシュは静かに震えた。全身が大きく脈打って、ザナタックの口へ熱い何かを撃ち出し始めた。
 ザナタックの唇から溢れ出した白い液体が、虚空に白い軌跡を描きながら、紅いベルベットに飛び散る。

 そしてそれは、ラーガシュの緑色の肌をも、美しく染め上げた。

「フフ……機能十分。それにキレイなのだぞ、ラーガシュ……」
 ザナタックは帽子を持ち上げると、中から大きな鏡を取り出した。

「これが…私…?」

 ラーガシュは生まれて初めて、己れの姿をそこに見た。

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